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r-fukai's Diary ausf blogger

月曜日, 2月 21, 2005

戦争反対とかいろいろ

まず言いたい。「お前ら、戦争に賛成反対の議論ができるくらい戦争について知ってんのかよ」と。
第二次世界大戦に実際に参加して(させられて)、その実感の上での言葉なら、たとえ一個人のごく狭い範囲の見聞のうちにされたものであったとしても、その言葉は重い。たまに中国共産党にオルグされちゃってから語り始める人がいたとしても、やはり重い。
私が小学生の頃は、夏休みの宿題として「おじいさんに戦争体験について聞いて感想を書きましょう」なんていう鬱陶しい課題が出たものだ。まだ戦争中に現役だった人が沢山生きていた。
もう亡くなってしまった私の祖父は、旧中島飛行機に勤務していて戦地には赴かなかったので、あんまり悲惨な体験は聞けなかったし、それなりに裕福だったために戦後の混乱期にもそれほどひどい目に遭ったわけでもなかったらしいので、私の個人的見聞の範囲では、戦争はそれほど悲惨なものではない、という、教師から見たらとても罰当たりな見解を持っていたりした。流石に小学生ともなればそれなりに空気が読めるわけで、心の底ではその命題を疑っていたとしても、表面的には「戦争は良くない」みたいなまとめをしたわけだが(今よりよほど世長けている)。
他にも、私は直接体験していないのだけれども、1960年代くらいの少年誌の巻頭カラー特集で、旧軍の兵器に関する記事が矢鱈と取り上げられた時期があったと見聞きしている。ゼロ戦(私はこの呼び方は嫌いだが)の神格化なんてのはこの辺りの話なのではないか。この時期に雑誌の記事を作っている人間が、戦後生まれということはあるまい。彼らも戦争の体験者であるはずだ。なのにこのような能天気な記事を作ることができるということは、彼らにとっても戦争は別段悪いものではなかったに違いない。少なくとも喉元を過ぎてしまえば能天気に格好良い・悪いで語れるレベルの。
確かに歩兵として戦闘に参加し悲惨な目に遭った人や、実際に住んでいた場所が戦場になった人、爆撃等で身内を亡くした人は沢山いる。その人達にとっては戦争は二度と経験したくない酷い体験であったであろうことは想像に難くない。
とはいえそれは所詮は他人事なのだ。他人への共感よりも優先されることなど、いくらでもある(少なくとも私にはある)。それは改められるべきものかもしれない。しかし、それは厳然として今存在するのだから、無視しても話は始まらない。
何が言いたいのかといえば、奇麗事だけ並べていても実質的な効果など期待できないというごく当たり前のことだ。
実際に自分が酷い目に遭ったと、その体験を語ることは悪くはない。しかしながら、それは聞く側の共感と善性に頼った行動であることを心に留めておくべきだ。
正しいことを言っていさえいれば、それが現実になるなんて幻想は捨ててしまおう。
世の中の人間が全て善性を持たぬとは言わない。ただ、目が眩んでそれが見えなくなってしまっている人間は確実にいる。本当に戦争を防ぎたいのなら、むしろそういう人を動かす方策を考えるべきなのではないか。
私が戦争反対を唱える人たちに対して感じるのは、こういうじれったさだ。大多数の善性に頼らなければ維持できない平和など、危なっかしくて見ていられない。