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r-fukai's Diary ausf blogger

木曜日, 3月 24, 2005

写経は普遍的な行為か否か?

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/03/post_20.html
ここの「聖書とは、人間がその一字一字を筆写しつつ、次代から次代へと、気の遠くなるほど長い期間、順次に手わたされてきた本である」を読んで思ったこと。
仏教における聖典であるところのさまざまな経典は、当然のことながら人間が手で筆写しつつ気の遠くなるほどの長い期間、順次に手渡されてきたものである。というかグーテンベルク以前から残っている本というのはほとんど全てそうである。
別に誰が何に感銘を受けようとそれは個人の勝手なのだけれども、あるものだけを特別扱いするときに、別にそれだけの特徴でもなんでもない事柄を取り上げて示されると、生来の突っ込みの血が騒ぐのだ。
それはともかくとして、仏教では、写経という行為は立派な修行の一環として現在でも行なわれている(仏教的な修行としての正当性とかそういう点においてはひとまず措く)。
仏教以外の宗教において、そのような修行が存在しているのだろうか? キリスト教においては、グーテンベルク以前は「聖書を所持して読む」という行為自体が、聖職者の特権と認識されていたという話を聞いたことがあるので、「聖書を書き写す作業」も聖職者の特権だったのではないだろうか。……よく考えてみれば、仏教の修行が、出家者だけの特権だったという可能性もあるのか。
うーむ、考えを進めるには少しばかり勉強不足が過ぎるな。ペンディングしておくことにする。