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r-fukai's Diary ausf blogger

月曜日, 3月 21, 2005

電波男再び

ネットのそこかしこに「電波男」についての感想が上がっている。
大別すると、ひたすら大絶賛をするものと、「そんな後ろ向きな態度じゃいかんだろ」というものが目立つように思える。
後者の代表として例えばここがある
http://d.hatena.ne.jp/ruwon/20050318#p3
要約すれば、「電波男が三次元を捨て、二次元に生きよと勧めるのは一種の逃げであり、それは後ろ向きで生産性もなく、戦っているわけでもなく、醜い」とでもなるだろうか。
この意見の筆者は、恋愛資本主義というルールに絶望しているわけではないのだろうと思う。
どこの誰が決めたものかは知らないが、最初から絶対的不利になるルールのゲームに「既に決まっていることだし、しょうがない」と唯々諾々と従って参加し、予測通り負けるなんていう行為は、本当に前向きなのだろうか? なんともルールの制定者にとって都合の良い前向きであることだ。
この社会の大前提は「自由」なのだから、気にくわないルールのゲームからは降りる自由だって認められてしかるべきだ。参加者が減って誰かが困るなら、もっと参加者が増えるようにゲームのルールを改訂するのが民主的というものではないか。ここで「参加しない奴は駄目だ」などという論を張ったところで、ルールが気に入らない人間がある程度以上増えてしまえば無意味になることは、少し考えてみれば判ることだ。それとも、ゲームに参加しないものにペナルティでも与えるのだろうか? そういう社会のことをなんと呼ぶか。「全体主義」と呼ぶのだ。
「恋愛資本主義」という概念について、その概念そのものの妥当性や、「恋愛資本主義」が人間を不幸にするシステムであるという意見そのものに真っ向から異論を唱えている意見はみかけない。強いて挙げれば
http://d.hatena.ne.jp/musique/20050319
ここがそうかも知れないが、具体的例をあげての反論ではないではないので少しばかり反論としては弱すぎる(文中で触れられているように「電波男の著者の周囲の女性はそうだったかもしれない」のなら、「筆者の周囲の女性はそこまで馬鹿ではないなのかもしれない」という反論に対して無力なのではないか)。
つまり、「電波男」を建設的ではない逃げを謳った書であると非難するのならば、「恋愛資本主義」に代わる新たなルールを提示するか、「恋愛資本主義」が社会の様々な要因の調整から生まれた現状では代替策が見つからない次善の策であることを証明してみせなければ、「電波男」に同調する層に対する説得力を持ち得ないのではないか。
「電波男」は、萌えによるルールからの逸脱を謳う書である以前に、「恋愛資本主義」に対する断罪の書であるのだから。