.comment-link {margin-left:.6em;}

r-fukai's Diary ausf blogger

月曜日, 5月 30, 2005

一万円の価値は人によって違う?

http://blog.tatsuru.com/archives/000600.php

>「一万円にどうして価値があるか分からない?ははは、バカだなあ。一万円くれたら教えてやるよ」
少なくとも、この話者にとっては一万円は「一万円の価値を説明する」という労働の対価分だけの価値があることが、この文章から読み取ることができる。つまり、充分な知性を持つ存在がこの会話を聞いたとすれば、一万円を払うことなく、少なくとも相手が持っている一万円に対する価値の物差しを手に入れることができる訳だ。
この会話文が笑い話になっているのは、その矛盾の故だろう。疑問を抱いたものがさらに教えを請えば、その行動は間抜けな行動なのでやはり笑いにつながるだろう(蛇足のそしりは免れないだろうが)。
トートロジーという文脈でこの会話文が出てくるのは、それが故の話だと私は解釈するのだが、以下のリンク先ではそういうことは全く無視して、価値判断基準の相対化に話を持っていってしまっている。
http://d.hatena.ne.jp/einzbren/20041220

経済社会に身を置く以上、金銭的価値は、金銭を対価にして行なわれているサービスを列挙することで容易に掴むことができる。リンク先で為されている「松坂牛」の議論は、個人的価値の揺らぎの問題であって、それはこの社会で普遍的に見える一万円の価値とは別個の問題である。
そこでわざわざかなり普遍的に価値が認められる「松坂牛」などを例として取り上げているのか、理解に苦しむ。「パンクロックバンドのコンサートチケット」辺りにしておけば、人によって評価が千差万別になることが容易に予測できるから判り易かろうに(ちなみにあんまり名前を聞いたことがないような歌手のコンサートでも、自由席で5000円を超えることは普通にある。海外のバンドなら、S席が一万円を超えないことのほうが珍しい)。
閑話休題。
つまり、日本にいる限り一万円を払うことで一定のサービスが受けられる保障を社会が行なっていることが一万円の価値である。問題は「分かる」「分からない」ではなく、「知っている」「知らない」だろう。「松坂牛」に一万円を払いたくない人は、既に一万円の価値を知っているから払いたくないのである。
一万円の価値を全く知らなければ、必要ないものを入手するための交換品として一万円を払うことはないかもしれないが、「これからお前に無理矢理松坂牛を食わせるが、一万円払えば勘弁してやる」と言われれば払うかもしれない。そうでなくても、みすぼらしい格好の男が「一万円をくれ」と言いながら付きまとってくれば払うかもしれない。価値を知らないということはそういうことだろう。
社会が保障しているから価値があることは、外国為替市場においては一万円以上の価値があることが多い100ドルが、日本の社会においては大抵の場合一万円の価値をも持ち得ないことでも判る。意味が分からない人は、外国為替取り扱いの銀行に行って日本円を100ドルに交換し、それを使って買い物なり各種サービスなりを受けようとしてみればいい。この実験を行なう場合、100ドルの他に一万円を持って歩く方が無難なのは言うまでもない。大概の場合は断られ、下手をすれば警察を呼ばれる。
リンク先で言っていることは、実は一万円に普遍的な価値があることは暗に認めていて、人によってその人の内部での一万円分の価値と外部の一万円分の価値のミスマッチが往々にしてある、というただそれだけのことだろう。そういう話をするときは、社会的制度から離れた価値観を持ち出さなければ有効な議論にはならない。