共感能力と酢酸タリウム
タリウムなんて元素のことは、殆ど初めて聞いたようなものだ(私は化学はどうしても暗記科目なので苦手だった)。
女子高校生が実の母親に毒を盛って殺そうとした、というところに異常性を感じている人が多いようなのだけれども、本当に供述通りに母親に対して共感を持っていなかったとするならば、実はそれほどおかしなことではないのかもしれない、などと私は思ってしまう。
共感を持てない対象には、人間はとことん冷たい。
例えば、ゴキブリを殺虫剤で殺すことにためらいを覚える人はまずいない。特に人間に被害を齎すわけでもない蛾を殺すことを躊躇する人もいないだろう。
無脊椎動物を例に挙げるのが極論に見えるかもしれない。だが、我々と同じ哺乳類であるネズミだって、ハツカネズミとかハムスターとか、そういうペット化されたげっ歯類には矢鱈と感情移入する癖していざドブネズミが目の前に現れれば、悲鳴を上げて逃げ回り、殺すことだってためらわない人間は多数派だろう。
猫まで来ると殺すことにためらいを感じる人が多数派になるだろうが、丹精込めた庭木を野良猫に荒らされた人ならば、その野良猫に毒餌を食べさせて駆除してしまいたいと感じるだろう。
斯様に、我々人間というのは実に身勝手な理由で生き物の生死を振り分けている。人間以外の生物の生死を勝手に決めることができるのならば、それを人間に適用するのに、社会的理由以外になにか不都合があるだろうか。
件の女子高校生は、母親で実験するに先立って、カエルや猫を毒殺していたという。彼女はカエルや猫には、少なくとも殺すことをためらう程度には共感していない訳だ。
ならば、実験対象のリストにちっとも共感できない母親を加えることをためらう理由があるだろうか。社会的にまずいのならば、バレなければいいのではないか(件の女子高校生が、あまり発覚することを恐れていた形跡はないが、それはまた別の問題なのでここでは措く)。
というわけで、私には件の女子高校生が「共感能力に欠けている毒薬マニア」にしか見えないのである。
私もかなり他者への共感能力に掛けるところがあるのだけれども、幸いなことに社会的に問題にされるような分野には興味がない。よって今のところはマスコミを賑わすような事件を起こす心配はなさそうだと自分では考えている。
女子高校生が実の母親に毒を盛って殺そうとした、というところに異常性を感じている人が多いようなのだけれども、本当に供述通りに母親に対して共感を持っていなかったとするならば、実はそれほどおかしなことではないのかもしれない、などと私は思ってしまう。
共感を持てない対象には、人間はとことん冷たい。
例えば、ゴキブリを殺虫剤で殺すことにためらいを覚える人はまずいない。特に人間に被害を齎すわけでもない蛾を殺すことを躊躇する人もいないだろう。
無脊椎動物を例に挙げるのが極論に見えるかもしれない。だが、我々と同じ哺乳類であるネズミだって、ハツカネズミとかハムスターとか、そういうペット化されたげっ歯類には矢鱈と感情移入する癖していざドブネズミが目の前に現れれば、悲鳴を上げて逃げ回り、殺すことだってためらわない人間は多数派だろう。
猫まで来ると殺すことにためらいを感じる人が多数派になるだろうが、丹精込めた庭木を野良猫に荒らされた人ならば、その野良猫に毒餌を食べさせて駆除してしまいたいと感じるだろう。
斯様に、我々人間というのは実に身勝手な理由で生き物の生死を振り分けている。人間以外の生物の生死を勝手に決めることができるのならば、それを人間に適用するのに、社会的理由以外になにか不都合があるだろうか。
件の女子高校生は、母親で実験するに先立って、カエルや猫を毒殺していたという。彼女はカエルや猫には、少なくとも殺すことをためらう程度には共感していない訳だ。
ならば、実験対象のリストにちっとも共感できない母親を加えることをためらう理由があるだろうか。社会的にまずいのならば、バレなければいいのではないか(件の女子高校生が、あまり発覚することを恐れていた形跡はないが、それはまた別の問題なのでここでは措く)。
というわけで、私には件の女子高校生が「共感能力に欠けている毒薬マニア」にしか見えないのである。
私もかなり他者への共感能力に掛けるところがあるのだけれども、幸いなことに社会的に問題にされるような分野には興味がない。よって今のところはマスコミを賑わすような事件を起こす心配はなさそうだと自分では考えている。
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