電波男またたび
http://d.hatena.ne.jp/Dawa/20050331
自分がリンクを張って書いた文章に反応があるというのは久しぶりの経験だ。反応していただいてありがとうございます。
他にやらなければならないことが沢山ある場合にはしんどいのだけれども、幸いにして今はそれほど忙しいわけでもないので、きちんと返事をすることにする。
本当はblogなのだからTrackbackを打つべきなんだろうが、未だにこのTrackbackというものがよく判っていないので(どうもbloggerにはないようだし)、ご勘弁願いたい。
まずは「説得力」に関して。
「説得力がないことは織り込み済みで、それでもコミュニケーションが大事だと考えるので敢えて言った」ということでよろしいだろうか。
技術者として生きているからか、それとも生来の怠け者であるせいか、私は行為に対するコストベネフィットというものが気になる。「どうせ行為を為すなら、なるべく効果的にしたい」と考える。なので、わざわざ苦言を呈するという役を買って出るからには、その苦言には説得力があった方がよろしかろう、などと余計なお世話を焼きたくなってしまったのだと思う。
「コミュニケーションが大事である」というのは、こうやってネット上で文章をやり取りしているのだから当然私もそのように考えているかといえばさにあらず。私は自分個人の楽しみとしてこのような形のコミュニケーションを図っている。よって、楽しくなくなってしまえばコミュニケーションを打ち切ってしまう可能性が高い(それ以外にも、「楽しむこと」よりもプライオリティの高い為すべきことが現れれば、後回しにされて、そのままなし崩しに終わってしまうこともあるだろう)。
コミュニケーションの必要性の説明があり、私がその論に納得すれば、話はまた変わってくるのだけれども、今のところ私の見聞した範囲にはそのようなものはないし(別に要求しているわけではありません。念の為)、現状でコミュニケーションの量が危機的状況にあるという認識もないので、私のコミュニケーションに対する立場は変わらないだろう。議論を通じてDawa氏(でいいのだろうか?)の立場を変えてもらいたいという欲求もない。「なるほど立場はわかりました。賛同はしませんが尊重はします」というところだろうか(こういうのもコミュニケーションの放棄と呼ぶのだろうか?)。
「恋愛資本主義批判」と「脱却の手段としての萌え」に関して。
何故、恋愛資本主義批判を納得していて、それでも恋愛資本主義に参加することが正しいと思えるのか、その点が私にとって一番の謎だった。
その一端が「萌えによる恋愛の代替」に対する反発であったということは、無理のないことかも知れないが、「電波男」に少しばかり完璧を求めすぎているように思う。しかも、少しばかりオールオアナッシング的思考に陥ってはいないだろうか。
「電波男」中で「二次元萌え」による恋愛の代替の説明が大きなウエイトを占めていることは確かだが、著者である本田透は「萌え」のみにて生きよと説いているわけではない(筆が滑ってそうとしか取れない表現になっている箇所も多数見られるが)。
仮令それが、「あっち側とこっち側の世界を二股かけても構わない」(P124)という表現であっても、「萌え」以外を絶対に認めないわけではないことを示すには充分だろう。
「恋愛資本主義」から脱却するために、本田透のように人生に愛を求めてやまない人間は「萌え」に走ればいい。
しかしながら、全ての人間が十全の愛が用意されていなければ人生を生きられないわけではない。別に恋愛などせずとも「鬼畜」にならずに生きていけるなら、特に何に走るでもなく「恋愛資本主義」からただ脱却すればいい。
酷いルールのゲームに参加しなければいけない義理など誰も背負ってはいないし、ましてや法律による縛りなどありはしないのだから。
また、ルールがおかしいから参加しないという態度は、立派な闘争行動である(サボタージュが労働争議における有効な戦術であったのと同様に)。自らの意思を以って「参加しない」という行動を選択するのだから、広い意味でのコミュニケーションでさえある。
なぜそんなことが言えるのかといえば、社会から要請されたことをあえて行なわないわけだから、その存在は目立つ。目立つということは、非言語的な情報発信を行なっていることと等しい。
また、自らの能動的な意思による行為であり、そして現状の何が悪いと認識しているかについて問われれば、それを説明できるのだから、これを単なるコミュニケーションの放棄と捉えることは誤りだろう(世間から誹りを受け、それを無視することなく主張を続ければ、コミュニケーションは完全に成立するわけだが、それは主張する余力がある者がやれば充分だとも思う)。
あるカテゴリーに属するコミュニケーションだけを拒否しているのであって、全面的にコミュニケーションを拒否しているわけではないのだ。
「世界はそうなっているのだから諦めろ」に関して。
少しだけ引用する。
>「世界はこうなっているのだから諦めろ」という論理は物凄く強力で、それを打ち崩すにはそれ相応の力が必要です。
私は前段部にはまったく賛成できない。強力なのは、そのような粗雑な物言いで安心できてしまう世界の強固さであって、この言葉自体は空疎でさえあると思う(そう思うからこそ使った)。
ただし、世界それ自体の強固さ(というよりは、柔軟で巨大であるが故の恒常性と呼ぶべきだろうか)を打ち崩すためには力が必要であることは間違いなく正しい。
しかしながら、人間は、世界を変えることで繁栄してきた動物であることを忘れてはならない。いくら強固でゆるぎないように見えたとしても、「変えなければならない」という意思を持って行動する人間が増えていけば、いつか必ず変わる。今の段階では、「変えなければならない」という意思が存在することを世に示し、少しずつでも良いからそう考える人間を増やしていくことが重要なのではないか。
そういう人間が増えていけば、脱却するための方法にもさまざまなバリエーションが増えていくだろうし、一気に世界を変えてしまう方法論も見つかるかもしれない。現段階で一気に事態を打開できる論を求めるのは、拙速を招くことにつながるのではないだろうか。
自分がリンクを張って書いた文章に反応があるというのは久しぶりの経験だ。反応していただいてありがとうございます。
他にやらなければならないことが沢山ある場合にはしんどいのだけれども、幸いにして今はそれほど忙しいわけでもないので、きちんと返事をすることにする。
本当はblogなのだからTrackbackを打つべきなんだろうが、未だにこのTrackbackというものがよく判っていないので(どうもbloggerにはないようだし)、ご勘弁願いたい。
まずは「説得力」に関して。
「説得力がないことは織り込み済みで、それでもコミュニケーションが大事だと考えるので敢えて言った」ということでよろしいだろうか。
技術者として生きているからか、それとも生来の怠け者であるせいか、私は行為に対するコストベネフィットというものが気になる。「どうせ行為を為すなら、なるべく効果的にしたい」と考える。なので、わざわざ苦言を呈するという役を買って出るからには、その苦言には説得力があった方がよろしかろう、などと余計なお世話を焼きたくなってしまったのだと思う。
「コミュニケーションが大事である」というのは、こうやってネット上で文章をやり取りしているのだから当然私もそのように考えているかといえばさにあらず。私は自分個人の楽しみとしてこのような形のコミュニケーションを図っている。よって、楽しくなくなってしまえばコミュニケーションを打ち切ってしまう可能性が高い(それ以外にも、「楽しむこと」よりもプライオリティの高い為すべきことが現れれば、後回しにされて、そのままなし崩しに終わってしまうこともあるだろう)。
コミュニケーションの必要性の説明があり、私がその論に納得すれば、話はまた変わってくるのだけれども、今のところ私の見聞した範囲にはそのようなものはないし(別に要求しているわけではありません。念の為)、現状でコミュニケーションの量が危機的状況にあるという認識もないので、私のコミュニケーションに対する立場は変わらないだろう。議論を通じてDawa氏(でいいのだろうか?)の立場を変えてもらいたいという欲求もない。「なるほど立場はわかりました。賛同はしませんが尊重はします」というところだろうか(こういうのもコミュニケーションの放棄と呼ぶのだろうか?)。
「恋愛資本主義批判」と「脱却の手段としての萌え」に関して。
何故、恋愛資本主義批判を納得していて、それでも恋愛資本主義に参加することが正しいと思えるのか、その点が私にとって一番の謎だった。
その一端が「萌えによる恋愛の代替」に対する反発であったということは、無理のないことかも知れないが、「電波男」に少しばかり完璧を求めすぎているように思う。しかも、少しばかりオールオアナッシング的思考に陥ってはいないだろうか。
「電波男」中で「二次元萌え」による恋愛の代替の説明が大きなウエイトを占めていることは確かだが、著者である本田透は「萌え」のみにて生きよと説いているわけではない(筆が滑ってそうとしか取れない表現になっている箇所も多数見られるが)。
仮令それが、「あっち側とこっち側の世界を二股かけても構わない」(P124)という表現であっても、「萌え」以外を絶対に認めないわけではないことを示すには充分だろう。
「恋愛資本主義」から脱却するために、本田透のように人生に愛を求めてやまない人間は「萌え」に走ればいい。
しかしながら、全ての人間が十全の愛が用意されていなければ人生を生きられないわけではない。別に恋愛などせずとも「鬼畜」にならずに生きていけるなら、特に何に走るでもなく「恋愛資本主義」からただ脱却すればいい。
酷いルールのゲームに参加しなければいけない義理など誰も背負ってはいないし、ましてや法律による縛りなどありはしないのだから。
また、ルールがおかしいから参加しないという態度は、立派な闘争行動である(サボタージュが労働争議における有効な戦術であったのと同様に)。自らの意思を以って「参加しない」という行動を選択するのだから、広い意味でのコミュニケーションでさえある。
なぜそんなことが言えるのかといえば、社会から要請されたことをあえて行なわないわけだから、その存在は目立つ。目立つということは、非言語的な情報発信を行なっていることと等しい。
また、自らの能動的な意思による行為であり、そして現状の何が悪いと認識しているかについて問われれば、それを説明できるのだから、これを単なるコミュニケーションの放棄と捉えることは誤りだろう(世間から誹りを受け、それを無視することなく主張を続ければ、コミュニケーションは完全に成立するわけだが、それは主張する余力がある者がやれば充分だとも思う)。
あるカテゴリーに属するコミュニケーションだけを拒否しているのであって、全面的にコミュニケーションを拒否しているわけではないのだ。
「世界はそうなっているのだから諦めろ」に関して。
少しだけ引用する。
>「世界はこうなっているのだから諦めろ」という論理は物凄く強力で、それを打ち崩すにはそれ相応の力が必要です。
私は前段部にはまったく賛成できない。強力なのは、そのような粗雑な物言いで安心できてしまう世界の強固さであって、この言葉自体は空疎でさえあると思う(そう思うからこそ使った)。
ただし、世界それ自体の強固さ(というよりは、柔軟で巨大であるが故の恒常性と呼ぶべきだろうか)を打ち崩すためには力が必要であることは間違いなく正しい。
しかしながら、人間は、世界を変えることで繁栄してきた動物であることを忘れてはならない。いくら強固でゆるぎないように見えたとしても、「変えなければならない」という意思を持って行動する人間が増えていけば、いつか必ず変わる。今の段階では、「変えなければならない」という意思が存在することを世に示し、少しずつでも良いからそう考える人間を増やしていくことが重要なのではないか。
そういう人間が増えていけば、脱却するための方法にもさまざまなバリエーションが増えていくだろうし、一気に世界を変えてしまう方法論も見つかるかもしれない。現段階で一気に事態を打開できる論を求めるのは、拙速を招くことにつながるのではないだろうか。
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