.comment-link {margin-left:.6em;}

r-fukai's Diary ausf blogger

月曜日, 6月 06, 2005

思い出したかのように電波男

「電波男」への反論として「著者や賛同者達が萌えているのも10代巨乳の美少女なので、見た目で判断するという三次元世界の女性への非難の説得力が著しく減じている」というものがある。
それはまさにその通りで、「電波男」の「見た目が良いものを希求する態度に対する非難」というのはこの本の最大の瑕疵であると私は考える。
「人間なのだから見た目に評価が引きずられるのは致し方ないことだ」と認めてしまえば、相手を非難することなく平和に二次元世界に耽溺できると私などは思うわけなのだが、おそらく本田透氏には、長年に亘る女性による自身の理不尽な扱いに対する恨みつらみをそう簡単に振り切ることはできなかったに違いない。また、それを認めてしまうと現実世界からは完全に撤退することになるために、おいそれとは踏み切れない(すなわち、本田透氏にはまだ三次元世界への未練がある)のではないかと推察する。
我田引水的に解釈すれば、「電波男」は「見た目に評価を引きずられる自分」を(意識してか無意識のうちにかは判らないが)認めずに、結果として見た目によるふるい分けで割を食う人間(=本田透を含めたモテない男達)を騙し続けることを非難していると解釈することも不可能ではない。
そもそも、「電波男」の側に立っている人間は、妄想世界において見た目による選択を行なっているだけであって、それを現実世界での選択と同一視するのは、それこそ「妄想と現実の区別がついていない」のではないか。
「電波男」では「もう現実世界では何もしません」と宣言した上でその選択を行なっているわけで、「現実世界での行動規範を示していないのだから、妄想世界での規範をそのまま援用すると解釈するのが自然ではないか」という論を張ることはできないと考える。