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r-fukai's Diary ausf blogger

木曜日, 5月 12, 2005

パケットビークルというアイデア

http://www.ce-lob.net/ringo/archives/2005/05/09/index.html#a000021
どこかで読んだことがあるような気がしたと思うのだが、牧野修「傀儡后」だったか。暮らしているワンルームの部屋自体が移動して通勤列車に接続されるとかそんなの。まぁ昔からSFには小道具として良く現れるテーマだと思う。
それらのアイデアと比較してこのアイデアの目新しいところは、「移動はゆっくりでいい」という1点に尽きるだろう。ほとんど全ての項目は、その1点から導き出されている。
どうしてそこまでして移動しなければならないのか、基本的に人間と顔を合わせることに重点を置かない私には理解しがたいのだけれども(個々人の目的に合わせたすりあわせまで可能なエージェントが作成可能ならば、移動などせずに通信のみで会合を行なうこともまた可能であろう。そうやって移動を不要にしていった方が資源の節約になる。まぁこれは森博嗣の受け売りに過ぎないわけだが)、いきなり人が移動することを贅沢と看做す社会に到達できるとはとても思えないので、盛大に資源を無駄遣いして軟着陸を試みているのだろう、などと意地の悪い見方もできる。
通信では代替不可能な移動にだけ資源の利用を許可しそれ以外の移動は全て自転車で行なうこと、などという法律を作ったら、石油資源の大幅な節約は可能だろうけれども、旅客運輸関連の企業や自動車関連の企業がまるごと倒産してしまって社会が破綻してしまうので、そのような硬着陸は不可能であろう(なんで軟着陸は変換できて硬着陸が変換できないのだろう?)。自由経済社会においては、そのようなベクトルの改革というのは不可能に近くて、改革にはそれまでの習慣を捨て去っても新しいやり方に移行した方が良い、という明確なメリットが必要になる。消費者の選択の結果として既存企業が滅ぶのは一向に構わないわけだ(おそらくこれも単なる建前に過ぎないと思われるが、根拠はない)。
画期的なアイデアがあったとしても、そのような形に持っていく事ができなければ単なる絵に描いた餅になってしまうわけだ。そういう意味では、既存の社会資本を大幅にリプレースしてしまうような画期的アイデアというものは、社会が発展していればしているほど、形となって世に出にくくなるということになる。経済が発展した末に停滞するという事象の原因の一つかもしれない。