「日本人スゲェ」にまつわる個人的妄想
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20070712#home
もうすでに個人の感じ方の問題になっている気もしないでもないのですが、気になるところは気になるので。
この後に続く文章は、私が勝手に作り上げた物語であって、本当にそうなのかどうかの検証はしていないし、おそらく検証など出来ないでしょう。寸゛さんはご存じと思いますが、私の趣味は物語の創作なので、つまるところこれは私の趣味の活動です。お付き合いいただくだけの心と時間の余裕があるのならばお読みください。そうでないならば無視して下さって構いません。
一部とはいえ(失礼)ムーブメントの送り手側としての当事者たる寸゛さんがそういう感情を抱くことは理解できる。
しかしながら、それはあまりに「才能を持つ者」の視点に偏っているように思う。オリンピックの譬えしかり。
スポーツイベントやこういう何かしらのムーブメントを物語に譬えれば、プレイヤーになったり作品を送り出す側に立てる「才能を持つ者」は主役であり、そうでないものは脇役でさえないモブだ(脇役は、その中に競争が存在したとき「才能を持つ者」同士の競争に敗れたものだろう)。
そして自分が脇役にさえなれないモブに過ぎないことは、この世に生を受けてから15年ほど経てば嫌でも思い知らされる。才能を持たぬ「モブ」たちは、そこから5年ほど経ったところでそれを受け入れ、「誰もが認める主役になりたい」という欲求を押し殺してモブとして生きていくことになる。
「才能を持つ者」からすれば、それは単なる努力不足に見えるのかも知れないが、個々人の個性の一部として、得意不得意はあるのが当たり前だし、その不得意を乗り越えてまで努力するという不屈の精神の持ち主は普遍的にいるわけではないことは自明だろう。
また、自分や他人の目によるふるい分けも行われる。「才能を持つ者」は認められ、褒められ、応援される。そうでない者は、貶されるか無視される、もしくは自分でやっていて嫌になる。そういう状況においてもやる気を維持できるというのも才能の一つだと言って構わないだろう。
しかしながら、「主役になりたい」欲求を押し殺し続けたところで、それが消え去ってくれるわけではない。どこかで代償行為を行わなければ、押し込めた欲求が形を変えて歪んだ形で噴出してくることになる。それは心身によってよろしくない。
主役になっている誰かと自分の共通するところを見つけ、その共通点でくくることであたかも自分が当事者になった気分を味わうという行為(判り易く言うと、この場合の「日本人スゲェ」のこと)は、その代償行為なのではないかと私は考える。
精神が未熟な子供においてはそれがもっと直接的に発露する。
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20070629#game070629
このエントリにおける
>「いい判断だつたね。彼はきつと『自分で描いた』と言ふよ」
という少年の行為や、他人の作成した痛車(ってもっと良い呼び名はないのか)を転売する行為などがそれに当たる。彼らは、(自分の心の中では本当は違うと知っているのに)他人から「才能を持つ者」と看做されることで、ほんのひと時だけでも「主役」になりたいのだ(Forza2に転買であることが即座に分かるシステムが実装されているのなら、転買に関する想像はまったくの的外れになる)。
転売ではなくコピーを作って配りまわる者は、その痛車を「世の中に広く周知する」という役割を演じることで、主役側に加わった気分を味わうのかもしれない。
ただ、転売やコピーの販売に関しては、ゲーム内通貨とはいえ「もっと価格が高い痛車を入手するための資金」を得るための手段にもなるので、この分析(というか勝手な想像)が当たらないパターンも数多くあるかもしれない。
とまあこんなことが想像(妄想)できるので、私は「日本人スゲェ」発言を責める気にはあまりなれない。私にだって「主役になりたい」願望は(いい歳こいて)人一倍あるし、それが満たされていない状況にあると自覚しているからだ。
それは無意味で愚かな行為かもしれないが、やらずにはいられない行為でもある。人間はそこまで強くないことを自分を通して私はよく知っている。
以下蛇足。というか疑問。
>* 例へば「マッチ捧で城の模型を作る」といつた様なアートが日本固有のものとは思へない
「日本で起きやすい傾向があるのでは」という意味のことは書いたけれども、「日本固有」というニュアンスは極力排したつもりだった。そう読み取れたのならば私の文章力不足である。申し訳ない。それとも、「日本固有」でなければ、多数の日本人がした優れた仕事に対して「日本人」とセットで語ってはいけないとお考えなのだろうか?
>* でも日本人の知らないところで他にいろんな凄いものが出来てるよねきつと
この文章は意図が上手く読み取れないのだけれども、まさかとは思うが、世の中の凄いものを全て知らなければ、「日本人スゲェ」と発言してはいけないとでも仰るつもりだろうか? 「日本人スゲェ、他民族はダメダメ」なら確かにそうだけれども、「日本人スゲェ」から他を貶める意図を読み取るのは穿ちすぎというものではないか。
もうすでに個人の感じ方の問題になっている気もしないでもないのですが、気になるところは気になるので。
この後に続く文章は、私が勝手に作り上げた物語であって、本当にそうなのかどうかの検証はしていないし、おそらく検証など出来ないでしょう。寸゛さんはご存じと思いますが、私の趣味は物語の創作なので、つまるところこれは私の趣味の活動です。お付き合いいただくだけの心と時間の余裕があるのならばお読みください。そうでないならば無視して下さって構いません。
一部とはいえ(失礼)ムーブメントの送り手側としての当事者たる寸゛さんがそういう感情を抱くことは理解できる。
しかしながら、それはあまりに「才能を持つ者」の視点に偏っているように思う。オリンピックの譬えしかり。
スポーツイベントやこういう何かしらのムーブメントを物語に譬えれば、プレイヤーになったり作品を送り出す側に立てる「才能を持つ者」は主役であり、そうでないものは脇役でさえないモブだ(脇役は、その中に競争が存在したとき「才能を持つ者」同士の競争に敗れたものだろう)。
そして自分が脇役にさえなれないモブに過ぎないことは、この世に生を受けてから15年ほど経てば嫌でも思い知らされる。才能を持たぬ「モブ」たちは、そこから5年ほど経ったところでそれを受け入れ、「誰もが認める主役になりたい」という欲求を押し殺してモブとして生きていくことになる。
「才能を持つ者」からすれば、それは単なる努力不足に見えるのかも知れないが、個々人の個性の一部として、得意不得意はあるのが当たり前だし、その不得意を乗り越えてまで努力するという不屈の精神の持ち主は普遍的にいるわけではないことは自明だろう。
また、自分や他人の目によるふるい分けも行われる。「才能を持つ者」は認められ、褒められ、応援される。そうでない者は、貶されるか無視される、もしくは自分でやっていて嫌になる。そういう状況においてもやる気を維持できるというのも才能の一つだと言って構わないだろう。
しかしながら、「主役になりたい」欲求を押し殺し続けたところで、それが消え去ってくれるわけではない。どこかで代償行為を行わなければ、押し込めた欲求が形を変えて歪んだ形で噴出してくることになる。それは心身によってよろしくない。
主役になっている誰かと自分の共通するところを見つけ、その共通点でくくることであたかも自分が当事者になった気分を味わうという行為(判り易く言うと、この場合の「日本人スゲェ」のこと)は、その代償行為なのではないかと私は考える。
精神が未熟な子供においてはそれがもっと直接的に発露する。
http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20070629#game070629
このエントリにおける
>「いい判断だつたね。彼はきつと『自分で描いた』と言ふよ」
という少年の行為や、他人の作成した痛車(ってもっと良い呼び名はないのか)を転売する行為などがそれに当たる。彼らは、(自分の心の中では本当は違うと知っているのに)他人から「才能を持つ者」と看做されることで、ほんのひと時だけでも「主役」になりたいのだ(Forza2に転買であることが即座に分かるシステムが実装されているのなら、転買に関する想像はまったくの的外れになる)。
転売ではなくコピーを作って配りまわる者は、その痛車を「世の中に広く周知する」という役割を演じることで、主役側に加わった気分を味わうのかもしれない。
ただ、転売やコピーの販売に関しては、ゲーム内通貨とはいえ「もっと価格が高い痛車を入手するための資金」を得るための手段にもなるので、この分析(というか勝手な想像)が当たらないパターンも数多くあるかもしれない。
とまあこんなことが想像(妄想)できるので、私は「日本人スゲェ」発言を責める気にはあまりなれない。私にだって「主役になりたい」願望は(いい歳こいて)人一倍あるし、それが満たされていない状況にあると自覚しているからだ。
それは無意味で愚かな行為かもしれないが、やらずにはいられない行為でもある。人間はそこまで強くないことを自分を通して私はよく知っている。
以下蛇足。というか疑問。
>* 例へば「マッチ捧で城の模型を作る」といつた様なアートが日本固有のものとは思へない
「日本で起きやすい傾向があるのでは」という意味のことは書いたけれども、「日本固有」というニュアンスは極力排したつもりだった。そう読み取れたのならば私の文章力不足である。申し訳ない。それとも、「日本固有」でなければ、多数の日本人がした優れた仕事に対して「日本人」とセットで語ってはいけないとお考えなのだろうか?
>* でも日本人の知らないところで他にいろんな凄いものが出来てるよねきつと
この文章は意図が上手く読み取れないのだけれども、まさかとは思うが、世の中の凄いものを全て知らなければ、「日本人スゲェ」と発言してはいけないとでも仰るつもりだろうか? 「日本人スゲェ、他民族はダメダメ」なら確かにそうだけれども、「日本人スゲェ」から他を貶める意図を読み取るのは穿ちすぎというものではないか。
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