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r-fukai's Diary ausf blogger

水曜日, 7月 11, 2007

一般的ペイントツールやメガデモでは自由度が高すぎる

http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20070710#game070710
>「Forza2」の痛車の盛上りに絡めた「言説」の中には「制約の中で無駄に
>力を入れられるのは日本人ならでは」みたいな論旨がテンプレの如く見られた
>ものだけど、さういふことを言つてる人は昔の(Amiga時代の)メガデモとか知
>らないんだらうなーと思つた。こんなところに国民性とかあまり関係ない、
うーん、どうなんだろう。
確かに、日本の現実世界で痛車が認知されつつある状況下で、タイミングよくゲーム内痛車を作れる環境を提供した、という要因が一番大きいのかもしれない。それがまたネットワークでユーザ同士が結構自由にやり取りできるようになっているという要因も大きいと思う。確かForza2は日本での発売が一番早かったように記憶しているので、先行者利益なのかもしれない。
しかし、私は思うのだ。「Forza2のペイント機能がPainter並みとは言わないまでも、他のゲームに実装されているドットで絵を描く機能と同等だったらここまでの盛り上がりを見せただろうか」と。
数々の痛車(失礼)を作成し続ける職人たちの心の中に、「こんな"貧弱な機能"だからこそすごい絵を描いてやる」という気持ちはほとんどないと言ってしまっていいものなのだろうか。彼らはただ単にそこに描けるから描いているだけなのか。
Forza2のペイント機能の「ぱっと見では単純なことしかできないように見えるけれど、凝ろうと思えばいくらでも凝れる」という性質に惹かれたからこそ彼らは作品を作り続け、受け手は大きなリスペクトを送り続けるのではないか。
容量の制限こそあるものの、メガデモというのはプログラミング技術の競い合いであると私は理解している。プログラミングというのは、その気になれば何でもできると言っても過言ではない。つまりは、一般的なペイント機能も容量を制限されたプログラミングも、日本人にとっては制限が緩すぎるように感じるのではないのか(メガデモに関しては、当時の日本の個人用コンピュータ事情の方がよほど効いているとは自分でも思うので、まぁ話半分くらいで)。
長く続いた江戸時代に、次々と出される幕府の禁令とそれをかいくぐって発展した町人文化の影響や、少ない予算をやりくりして独自に発展した日本のアニメーションの影響を、このForza2の貧弱なペイント環境で美麗な絵を描くという構図の中に見ることはそんなにおかしいことだろうか。
そういう心性は民族人種に関わらず万民が持ち得るものだけれども、歴史的経緯から日本人に強く表れる傾向がある、と考えるのは間違った発想なのだろうか。
つーかさ。日本人がウケを取ってる時に同じ日本人が「日本人スゲェ」くらい言ったっていいだろうに。誰かを貶めてるわけじゃなし。身内を褒めるのがいつからそんなに醜い行為になったのよ(鼻につく、くらいならまだしも)。

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