ヘンリー・ダーガー展に行ってきた
原美術館のヘンリー・ダーガー展が今日までだと金曜に知ったので、いつもの休日よりはだいぶ早起きして見に行った。ヘンリー・ダーガーがどういうアーティストなのかは、ググってもらって他の詳しいページを参照されたし。簡単に言うと、孤独な生活の中で15000ページにも渡る少女と大人の戦争を描いた「非現実の王国で(In the Realms of the Unreal)」という小説を執筆し、その挿絵も描いたという人物である。
ヘンリー・ダーガーの名前は多分以下のリンクで知ったと思う。
http://homepage3.nifty.com/kazano/diary9904c.html#26
元からオタク的世界との親和性を含んで語られていたのを読んだお陰で(という言い方もないか)、少しだけ気になる存在ではあったのだった。
しかしながら、日付をよく見てもらえば判るが、なにせ8年以上前のことなので、「精神病絡み」「戦う少女を題材にしている」くらいの記憶しか残っておらず、会場は美術館であるので小説の挿絵である絵は飾られているが、「非現実の王国で」自体の詳しい説明はあまりないのだった。
そのお陰で、最初にある「あまり過激な作品は飾ってません(意訳)」という注意書きもピンと来ず、絵もなんとなく漫然と眺めてしまったのだった。
ミュージアムショップでダーガーを特集した美術手帳という雑誌を買って「非現実の王国で」についての文章を読んで、予習してから行けばよかった、と少し後悔した。
もちろん、展示されている作品群は非常にインパクトの強いものばかりで、漫然と眺めたとはいっても、そこに展開する異様(と言ってしまおう)な世界に引き込まれ、それなりに時間をかけて見たつもりなのだけれども(絵に描かれた少女の台詞が書き込まれていたり、状況を説明するト書きが書き込まれていたりするので、それを読み取ることを試みたり)、やはりこれは小説が元になった挿絵なのであり、そのアウトラインだけでも知っているのと知らないのでは、ぜんぜん違う。
というよりは、私は美術手帳に断片的に抄訳されている「非現実の王国で」に引き込まれた。ダーガーは精神遅滞だったと診断されていたらしいが、モチーフが異様な世界であっても、これだけの文章を書ける人間が精神遅滞であるなどとは、私にはとうてい思えない。
実際に存在している15000ページの原稿は、話がつながっていなかったり、明確なラストシーンがなかったりと、全編を読み通すのが困難なものになってしまっているらしいのだが、もし彼が普通の人間として普通の教育を受け、それでもこの創作に情熱を傾けていたとしたら、一体どんな作品が出来上がっていただろう。
もしかすると、凡庸な作品が残り、誰にも省みられることなく消えていたかもしれない。それでも、きちんと世に受け入れられる形でこの大長編が完成していたかも知れないと思うと、なにか途轍もない損失が起こったような、そんな気がするのである。
それとも、この私を惹きつける何かは、未完成なものだけがまとう、一種独特な魅力なのだろうか。
ヘンリー・ダーガーの名前は多分以下のリンクで知ったと思う。
http://homepage3.nifty.com/kazano/diary9904c.html#26
元からオタク的世界との親和性を含んで語られていたのを読んだお陰で(という言い方もないか)、少しだけ気になる存在ではあったのだった。
しかしながら、日付をよく見てもらえば判るが、なにせ8年以上前のことなので、「精神病絡み」「戦う少女を題材にしている」くらいの記憶しか残っておらず、会場は美術館であるので小説の挿絵である絵は飾られているが、「非現実の王国で」自体の詳しい説明はあまりないのだった。
そのお陰で、最初にある「あまり過激な作品は飾ってません(意訳)」という注意書きもピンと来ず、絵もなんとなく漫然と眺めてしまったのだった。
ミュージアムショップでダーガーを特集した美術手帳という雑誌を買って「非現実の王国で」についての文章を読んで、予習してから行けばよかった、と少し後悔した。
もちろん、展示されている作品群は非常にインパクトの強いものばかりで、漫然と眺めたとはいっても、そこに展開する異様(と言ってしまおう)な世界に引き込まれ、それなりに時間をかけて見たつもりなのだけれども(絵に描かれた少女の台詞が書き込まれていたり、状況を説明するト書きが書き込まれていたりするので、それを読み取ることを試みたり)、やはりこれは小説が元になった挿絵なのであり、そのアウトラインだけでも知っているのと知らないのでは、ぜんぜん違う。
というよりは、私は美術手帳に断片的に抄訳されている「非現実の王国で」に引き込まれた。ダーガーは精神遅滞だったと診断されていたらしいが、モチーフが異様な世界であっても、これだけの文章を書ける人間が精神遅滞であるなどとは、私にはとうてい思えない。
実際に存在している15000ページの原稿は、話がつながっていなかったり、明確なラストシーンがなかったりと、全編を読み通すのが困難なものになってしまっているらしいのだが、もし彼が普通の人間として普通の教育を受け、それでもこの創作に情熱を傾けていたとしたら、一体どんな作品が出来上がっていただろう。
もしかすると、凡庸な作品が残り、誰にも省みられることなく消えていたかもしれない。それでも、きちんと世に受け入れられる形でこの大長編が完成していたかも知れないと思うと、なにか途轍もない損失が起こったような、そんな気がするのである。
それとも、この私を惹きつける何かは、未完成なものだけがまとう、一種独特な魅力なのだろうか。
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