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r-fukai's Diary ausf blogger

火曜日, 7月 17, 2007

人は誰しも自分の人生の主役ではありますが

http://d.hatena.ne.jp/yms-zun/20070715#audiense
前回のエントリでは重大な書き洩らしがありました。人間の関わるなにがしかを物語に譬える時、(おそらく)誰もが主役を望むのは「面白い」物語だけだ、という主張です。
面白さの普遍的物差しを定義するのは非常に難しい(というよりはほぼ不可能)ですが、そういう普遍的な面白さではなくて、「主役になりたがっている人が感じる面白さ」でこの場合は問題ないと考えます。
ですから、前回のエントリで私が「モブ」と称した人々は、「自分の人生を退屈な物語だと感じている人々」と呼ぶべきかもしれません。
寸゛さんの今回のエントリの主張は、大筋ではこの書き洩らしによって大きな影響を受けるわけではないと思いますが、いずれにせよ無用の混乱を招きかねないミスでした。申し訳ない。

>本当にさうなのでせうか。さうかもしれないけど、言葉としてさう表現してしまふと、何とも息苦しいものですなあ。
私は前回のエントリで、そういう息苦しさや自らの物語のままならなさから逃れるために、たとえ根拠がないとしても面白い物語への当事者意識を持ちたいがための発言なのではないか、という分析をしたつもりです。
前回のエントリのタイトルに「妄想」とつけたのは、逃げを打つことが主目的ではなくて(副次的な目的であったことは否定しませんが)、この分析には特に根拠がないからです。そういう無根拠な当事者意識を持つような発言者にインタビューをするなどのフィールドワークが背景にあるわけではありませんから。
話題が逸れました。元に戻しましょう。
ですから、「日本人スゲェ」発言に込められた当事者意識には根拠など全く存在しないし、する必要もそれほどないのです。しかしながら、それは自身が感じている閉塞感(息苦しい、ままならない)から逃れるためであり、確かに良いこととはいえませんが、眦を吊り上げて糾弾すべきものでもない、と私は思うわけです。
何故に私がこのように彼らに対して寛大な態度を取るのかといえば、当事者ではないということもあるのかもしれませんが、それよりも、人間がフィクションを必要とする理由とこの発言の根っ子が同じところにあると思うからです。
寸゛さんの仰るように、自らの位置づけを「観客」としてそれで満足すれば充分であるという人もいるでしょうが、すべての「面白そうな物語」に対して自分を「観客」と位置づけるには、相当の客観性が必要だと私は思います。それくらい、「息苦しさ」から逃れるための誘惑は強いと考えます。

>といふ事の一端を見てきた一人として、それが「日本人だから」とか「YouTubeの御蔭」みたいなピント外れの大雑把な物語に回収されるのが苛立たしかつた
なるほど、理解しました。実に寸゛さんらしい理由だと思います。

「日本固有」に関しては了解しました。同人活動とコミケの理念に関しては、いくばくか思うところがあるのですが、ちょっと言葉としてまとまらないので、またの機会にさせてください。

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