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r-fukai's Diary ausf blogger

金曜日, 2月 23, 2007

テレビ番組作成側の「ヤラセ」体質には、オカルト側でも批判的な人がいる

という話が「と学会誌」に書かれていたことがある。
テレビ番組制作側としては、期限内に予算を超過せずに起承転結が付いた時間ぴったりの映像を持ってくる人間が正義であるわけで、起承転結が付いているように見えさえすれば、それが嘘八百だろうがなんだろうが、とりあえずは問題ないとする。
オカルトは、元々ポジティブな結果など出ないはずのものがほとんどで、それを舌先三寸でいかにポジティブな結果が出ていると思い込ませるか、という芸(一応、全てがそうだというわけではないということにしておこう)なので、起承転結をつけるには誠に都合が良く、大抵は衆目を惹きつける効果を謳うので、この点においても誠にテレビ向きなのである。
んが、オカルトの世界にいるのに誠実だ、などという一風変わった人というのはいるもので、たとえばダウジングなどをやるのだけれども、外れることのほうが多い、などと認識していてそれを隠さない人もいたりする。彼にとってはそれでもダウジングは有用なのである。
しかしながらテレビ的にはそれでは説得力のかけらも感じられないということで、失敗したものは編集してなかったことにしたり、結果として外れたものにも上手い言い訳を付け加えて当たったことにしたりすることがあるらしく、誠実なオカルトの人にはそれが我慢ならなかったりするようなのである。
閑話休題。
なぜにテレビ人はとりあえず起承転結が整っているように見えさえすれば、嘘八百でも構わないとするのか。
放送枠は予め決まっており、少なからぬ金銭も既に使われている。起承転結を付けるに当たって、誠実に真実を歪めないように、などと考え、そこから外れるものを没にするなどという余裕はないのである。
……はて? 少なくとも公共の資産である電波帯域を占有して放送事業を行なうことを認可された放送事業免許というものが存在して、放送事業へのある程度以上の参入障壁が存在するのは、その「余裕」を作り出すことで公共の電波に乗る番組の内容の品質を高い水準に留めるためではないのだろうか。
これは要するに、産出される製品の品質を保持する目的で保護的な政策を取るというのは愚策中の愚策で、そのようにしてみたところで品質が保たれるなどということはなく、むしろ品質は低下して事業者が儲かるだけの結果になる、という極当たり前の現象が起きているだけのことではないか。
何が言いたいのかといえば、総務省は放送局をもっときちんと監督しろ、という話である。

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