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r-fukai's Diary ausf blogger

木曜日, 3月 31, 2005

電波男またたび

http://d.hatena.ne.jp/Dawa/20050331
自分がリンクを張って書いた文章に反応があるというのは久しぶりの経験だ。反応していただいてありがとうございます。
他にやらなければならないことが沢山ある場合にはしんどいのだけれども、幸いにして今はそれほど忙しいわけでもないので、きちんと返事をすることにする。
本当はblogなのだからTrackbackを打つべきなんだろうが、未だにこのTrackbackというものがよく判っていないので(どうもbloggerにはないようだし)、ご勘弁願いたい。

まずは「説得力」に関して。
「説得力がないことは織り込み済みで、それでもコミュニケーションが大事だと考えるので敢えて言った」ということでよろしいだろうか。
技術者として生きているからか、それとも生来の怠け者であるせいか、私は行為に対するコストベネフィットというものが気になる。「どうせ行為を為すなら、なるべく効果的にしたい」と考える。なので、わざわざ苦言を呈するという役を買って出るからには、その苦言には説得力があった方がよろしかろう、などと余計なお世話を焼きたくなってしまったのだと思う。
「コミュニケーションが大事である」というのは、こうやってネット上で文章をやり取りしているのだから当然私もそのように考えているかといえばさにあらず。私は自分個人の楽しみとしてこのような形のコミュニケーションを図っている。よって、楽しくなくなってしまえばコミュニケーションを打ち切ってしまう可能性が高い(それ以外にも、「楽しむこと」よりもプライオリティの高い為すべきことが現れれば、後回しにされて、そのままなし崩しに終わってしまうこともあるだろう)。
コミュニケーションの必要性の説明があり、私がその論に納得すれば、話はまた変わってくるのだけれども、今のところ私の見聞した範囲にはそのようなものはないし(別に要求しているわけではありません。念の為)、現状でコミュニケーションの量が危機的状況にあるという認識もないので、私のコミュニケーションに対する立場は変わらないだろう。議論を通じてDawa氏(でいいのだろうか?)の立場を変えてもらいたいという欲求もない。「なるほど立場はわかりました。賛同はしませんが尊重はします」というところだろうか(こういうのもコミュニケーションの放棄と呼ぶのだろうか?)。

「恋愛資本主義批判」と「脱却の手段としての萌え」に関して。
何故、恋愛資本主義批判を納得していて、それでも恋愛資本主義に参加することが正しいと思えるのか、その点が私にとって一番の謎だった。
その一端が「萌えによる恋愛の代替」に対する反発であったということは、無理のないことかも知れないが、「電波男」に少しばかり完璧を求めすぎているように思う。しかも、少しばかりオールオアナッシング的思考に陥ってはいないだろうか。
「電波男」中で「二次元萌え」による恋愛の代替の説明が大きなウエイトを占めていることは確かだが、著者である本田透は「萌え」のみにて生きよと説いているわけではない(筆が滑ってそうとしか取れない表現になっている箇所も多数見られるが)。
仮令それが、「あっち側とこっち側の世界を二股かけても構わない」(P124)という表現であっても、「萌え」以外を絶対に認めないわけではないことを示すには充分だろう。
「恋愛資本主義」から脱却するために、本田透のように人生に愛を求めてやまない人間は「萌え」に走ればいい。
しかしながら、全ての人間が十全の愛が用意されていなければ人生を生きられないわけではない。別に恋愛などせずとも「鬼畜」にならずに生きていけるなら、特に何に走るでもなく「恋愛資本主義」からただ脱却すればいい。
酷いルールのゲームに参加しなければいけない義理など誰も背負ってはいないし、ましてや法律による縛りなどありはしないのだから。
また、ルールがおかしいから参加しないという態度は、立派な闘争行動である(サボタージュが労働争議における有効な戦術であったのと同様に)。自らの意思を以って「参加しない」という行動を選択するのだから、広い意味でのコミュニケーションでさえある。
なぜそんなことが言えるのかといえば、社会から要請されたことをあえて行なわないわけだから、その存在は目立つ。目立つということは、非言語的な情報発信を行なっていることと等しい。
また、自らの能動的な意思による行為であり、そして現状の何が悪いと認識しているかについて問われれば、それを説明できるのだから、これを単なるコミュニケーションの放棄と捉えることは誤りだろう(世間から誹りを受け、それを無視することなく主張を続ければ、コミュニケーションは完全に成立するわけだが、それは主張する余力がある者がやれば充分だとも思う)。
あるカテゴリーに属するコミュニケーションだけを拒否しているのであって、全面的にコミュニケーションを拒否しているわけではないのだ。

「世界はそうなっているのだから諦めろ」に関して。
少しだけ引用する。
>「世界はこうなっているのだから諦めろ」という論理は物凄く強力で、それを打ち崩すにはそれ相応の力が必要です。
私は前段部にはまったく賛成できない。強力なのは、そのような粗雑な物言いで安心できてしまう世界の強固さであって、この言葉自体は空疎でさえあると思う(そう思うからこそ使った)。
ただし、世界それ自体の強固さ(というよりは、柔軟で巨大であるが故の恒常性と呼ぶべきだろうか)を打ち崩すためには力が必要であることは間違いなく正しい。
しかしながら、人間は、世界を変えることで繁栄してきた動物であることを忘れてはならない。いくら強固でゆるぎないように見えたとしても、「変えなければならない」という意思を持って行動する人間が増えていけば、いつか必ず変わる。今の段階では、「変えなければならない」という意思が存在することを世に示し、少しずつでも良いからそう考える人間を増やしていくことが重要なのではないか。
そういう人間が増えていけば、脱却するための方法にもさまざまなバリエーションが増えていくだろうし、一気に世界を変えてしまう方法論も見つかるかもしれない。現段階で一気に事態を打開できる論を求めるのは、拙速を招くことにつながるのではないだろうか。

WinnyはCDの売り上げに悪影響を及ぼさない、再び

http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0503/29/news097.html
WinnyはCDの売り上げを減らさないという研究発表の検証記事。
業界からは「Winnyが影響を与えるのはセルではなくレンタルだ」という反論が来ているという。
当然のことながら、その反論が業界全体の統一見解であるなどということはないわけだが、反論を出してくるような単位で、WinnyによるP2P共有がCDの売り上げに悪影響を及ぼさないという説を認める集団が業界内にいるということは判ったわけだ。というか、知ってて黙ってたんじゃなかろうか。

CMカットの話は逆効果だ

http://www.geocities.co.jp/Playtown/2080/
ここの3/29分(いずれ過去ログに移動すると思われる)。
コピーワンス放送が始まると「気軽にCMカットができなくなる」という指摘をしているが、これは放送局としては願ったり適ったりの状況であることは論を待たない。よって、いくらユーザが不便を被るとしても、この主張はコピーワンス放送を放送局に思い止まらせる結果には結びつかないと思う。

火曜日, 3月 29, 2005

電波男たびたび

http://d.hatena.ne.jp/Dawa/20050328
電波男の「萌えによって恋愛資本主義から脱却せよ」という主張が、行き過ぎた個人主義に陥る虞がある、との批判はあってしかるべきものだと思う。
ただ、オタク趣味はもう十二分に世間からの風当たりが強いので、いまさら世間を持ち出してみたところで、電波男に共感する層に対する説得力はさほどないのではないだろうか。
また、脱却を志向するに至った「恋愛資本主義」批判に対する視点が欠けているように思う。
同調している層が、全員「真の愛」を探しているわけではないだろう。むしろ全員参加が義務付けられているかのごとく振舞う「恋愛資本主義」(これではまるで全体主義だ)になんともいえない居心地の悪さを感じているだけの人間が多いのではないだろうか。
もはや、世間を持ち出して脅かしを加えても「世界はこうなっているのだから諦めろ」以上の言葉には聞こえないのだ。それは単なる抑圧者の言い訳でしかない。

立体ドガ「踊り子」

http://www.hirax.net/diaryweb/2005/03/25.html#200503252
立体というから、あのバレリーナが片足を上げてバランスを取っているポーズをモデリングしたのかと思ってしまった私は、ゲームに思考を汚染されているのかもしれない(当然のことながら、これは決してゲーム脳ではない)。

『メテオス』好きな人たちを批判する人たち

http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050327#meteos
一つ言えるのは、自分と意見を異にする人間の人格攻撃をいくら行なっても、自分の意見の価値は上がらない。むしろ下がる。ってことかな。結局のところ、感情論に後付けの理屈を付けてるだけってことがその時点でバレてしまうわけだから。感情論は、同じ感情を得た人にしか通じないから、論としては下の下であることは明白。
ちなみに、このblogが感情論だらけなのは仕様です。

日曜日, 3月 27, 2005

RD-XS46

金がないというのに、RD-X3がDVD-RAMカートリッジを飲み込んだまま吐き出してくれなくなってしまった。
怒涛のアニメ録画スケジュールを、観る時間を使うことなく乗り切るためには、定期的なDVD-RAMへの出力が不可欠である(不毛だ? そんなことは百も承知なので放っておいて頂きたい)。
修理に出せば、修理期間中の番組は撮れないわけで、どれくらいの期間が必要なのかも判らないし、そんなことではなんのために修理に出すのかよく判らなくなってしまう。
しょうがないので、値段のこなれ始めたRD-XS46を買うことにした。一応、Amazonの現在の価格よりは安かった。一ヶ月くらい時期が早ければ、投げ売り状態だったRD-XS53を似たような価格で入手可能だったらしいが、もともと買う予定のないものだったのだから仕方ない。
無秩序に積み上がった荷物を左から右へと動かし、なんとか作業スペースを作り上げて設置するも、なぜかネットワークを認識しない。
すわ初期不良か、と思いつつマニュアルを見ると、「付属のケーブルはクロス」との記述が。そりゃクロスでハブにつなげれば認識しないだろう。とりあえず、くまうた以外で使っていないPS2に繋がっていたケーブルを引っこ抜いて接続し、無事に認識された。
まだ、スパゲティと化したAVケーブルの整理などもしないと少しばかり不便なのだが、今日はここまで。ネットDeダビングもちょっと遊べそうではあるが、いかんせん、XS46の方には何も録画データが貯まっていないのである。その辺はおいおい試していくとしよう。

金曜日, 3月 25, 2005

DRM=コピー不可でいいのか?

http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0503/23/news103.html
ここで言われている「セキュア」が一体どういうものなのか、記事中ではまったく説明されていないので、その内容を窺い知ることはできないけれども、日本におけるDRMはすなわち「ほぼ」コピー不可であることは、地上デジタル放送に掛けられようとしているコピーワンスからも容易に予測できる。
http://www.geocities.co.jp/Playtown/2080/
ここの3/23~3/24(そのうち過去ログに移動するだろう)で主張されているように、コピー制限は、ユーザの使い勝手に与える影響が大きすぎる。
この手の権利団体の人間は、二言目には無劣化のコピーを取り上げるわけだが、例えば、PSPやプレイやん用の小さくて高圧縮の画像へのコピーはどうなのか。現状のコピー制限技術では、このようなコピーまでも十把一絡げに制限してしまっている。
そういうデータも売りたいという欲求は、わからないでもない。しかし、デジタル以前に、レコードと平行して小規模ながらテープでも曲が売られていたが、テープへのコピーは制限されていなかったし、制限することでより収益が得られると考える人間も居なかったわけだ(もしかすると居たのかもしれないが、少なくとも多数派ではなかったのだろう)。
技術が進歩することで、ユーザがどんどん不自由になっていく。こうやって未来のビジョンを暗くすることが、娯楽産業の人間のするべきことなのか、一度よく考えてみるべきだと思う。

木曜日, 3月 24, 2005

恐るべき教師

http://www.yomiuri.co.jp/komachi/reader/200503/2005031600045.htm
個人的な経験のレベルでは、女性教師には「人格に欠陥があるのではないか」と疑わせるような経験をしたり、はたまたそのような経験談を聞くことが多いような気がする。
これは単に私が男だからそうなのかもしれないし、問題のない場合には言及もされなければ記憶にも残りにくいというだけの話なのかもしれない。
そもそも、12年間(大学は少し違うような気がするので敢えて含めない)公立学校で教育を受けてきて人格的に尊敬に値する担任教師に出会ったのは一人だけだ。「こりゃ酷い」と思ったのは三人ほどいる(教師と生徒といえども人間関係に変わりはないので、単純に馬が合わなかったという可能性は否定しないが)。可もなく不可もなかった人のことは忘却の彼方なので、総数がどれだけだったかは正確には判らないが、おそらく7~8人ではないかと思う。
結局のところ、これも個人的体験の範疇からは一歩も踏み出せていないわけで、ここから全体を語るのは無理なのだけれども、全体のうちの「こりゃ酷い」の割合の高さを改めて考えてみると空恐ろしくなる。
ちなみに上の私の経験は男女混合で、「こりゃ酷い」の数は男2の女1。母集団の男女比は忘却の彼方なので、にんともかんとも。

写経は普遍的な行為か否か?

http://finalvent.cocolog-nifty.com/fareastblog/2005/03/post_20.html
ここの「聖書とは、人間がその一字一字を筆写しつつ、次代から次代へと、気の遠くなるほど長い期間、順次に手わたされてきた本である」を読んで思ったこと。
仏教における聖典であるところのさまざまな経典は、当然のことながら人間が手で筆写しつつ気の遠くなるほどの長い期間、順次に手渡されてきたものである。というかグーテンベルク以前から残っている本というのはほとんど全てそうである。
別に誰が何に感銘を受けようとそれは個人の勝手なのだけれども、あるものだけを特別扱いするときに、別にそれだけの特徴でもなんでもない事柄を取り上げて示されると、生来の突っ込みの血が騒ぐのだ。
それはともかくとして、仏教では、写経という行為は立派な修行の一環として現在でも行なわれている(仏教的な修行としての正当性とかそういう点においてはひとまず措く)。
仏教以外の宗教において、そのような修行が存在しているのだろうか? キリスト教においては、グーテンベルク以前は「聖書を所持して読む」という行為自体が、聖職者の特権と認識されていたという話を聞いたことがあるので、「聖書を書き写す作業」も聖職者の特権だったのではないだろうか。……よく考えてみれば、仏教の修行が、出家者だけの特権だったという可能性もあるのか。
うーむ、考えを進めるには少しばかり勉強不足が過ぎるな。ペンディングしておくことにする。

水曜日, 3月 23, 2005

電車が微妙に遅れていた

なんか知らんが、今朝は東武もJRも1~2分という微妙なレベルで遅延していて、ぎりぎりで間に合う乗り継ぎに悉く失敗したために危うく遅刻しそうになった。
京浜東北線の停電による停止の影響かとも思ったのだが、特にそういうアナウンスはなし。
一体なんだったのだろうか。

人権擁護法案

私にとっては、
・自民党では古賀誠が一番の推進派である
・民主党が「メディア規制凍結」を条件に賛成している
この2点だけで反対するには必要十分。

火曜日, 3月 22, 2005

食事の時間

http://www.mainichi-msn.co.jp/kagaku/science/news/20050318ddm002040123000c.html
素晴らしい。諸星大二郎的ディストピアも目の前だ!
いや、これで命が助かる人もいるかもしれないので、茶化していてはいけないのだろうが。

プロの仕事だぁ?

http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/wadai/news/20050317ddm004070141000c.html
偉そうに能書き垂れる前に、そのプロの仕事ってのを見せてはもらえないものかねぇ?
現在のジャーナリズムがプロの仕事をしていないと評価する人間がある程度いるからこそ、ライブドア側に与する世論というものが出来上がるのではないか。
なんか遺跡捏造とか道警の裏金とか言ってるけど、もしかして5年に一回くらいしか仕事しないのか? 誰も金払わんだろ、そんなのには。

設定をちょこちょこいじりました

ここがRSSフィードされているという事実に昨日まで気付かず、RSSフィード指定の設定を何も考えずFullのままにしていたので、それではRSSフィードの意味があまりないかと思い、Shortに変えてみた。RSSは軽いことが身上だと思うからだ。
これまた昨日付け加えてみたアクセスログ付きカウンタのログを見たら、どうもRSSリーダで読んでいる人がいるようなので、不便ならばその旨コメントしていただきたい(いや、別にコメント誘導なんかじゃありませんよ。メールでも良いです)。

月曜日, 3月 21, 2005

電波男再び

ネットのそこかしこに「電波男」についての感想が上がっている。
大別すると、ひたすら大絶賛をするものと、「そんな後ろ向きな態度じゃいかんだろ」というものが目立つように思える。
後者の代表として例えばここがある
http://d.hatena.ne.jp/ruwon/20050318#p3
要約すれば、「電波男が三次元を捨て、二次元に生きよと勧めるのは一種の逃げであり、それは後ろ向きで生産性もなく、戦っているわけでもなく、醜い」とでもなるだろうか。
この意見の筆者は、恋愛資本主義というルールに絶望しているわけではないのだろうと思う。
どこの誰が決めたものかは知らないが、最初から絶対的不利になるルールのゲームに「既に決まっていることだし、しょうがない」と唯々諾々と従って参加し、予測通り負けるなんていう行為は、本当に前向きなのだろうか? なんともルールの制定者にとって都合の良い前向きであることだ。
この社会の大前提は「自由」なのだから、気にくわないルールのゲームからは降りる自由だって認められてしかるべきだ。参加者が減って誰かが困るなら、もっと参加者が増えるようにゲームのルールを改訂するのが民主的というものではないか。ここで「参加しない奴は駄目だ」などという論を張ったところで、ルールが気に入らない人間がある程度以上増えてしまえば無意味になることは、少し考えてみれば判ることだ。それとも、ゲームに参加しないものにペナルティでも与えるのだろうか? そういう社会のことをなんと呼ぶか。「全体主義」と呼ぶのだ。
「恋愛資本主義」という概念について、その概念そのものの妥当性や、「恋愛資本主義」が人間を不幸にするシステムであるという意見そのものに真っ向から異論を唱えている意見はみかけない。強いて挙げれば
http://d.hatena.ne.jp/musique/20050319
ここがそうかも知れないが、具体的例をあげての反論ではないではないので少しばかり反論としては弱すぎる(文中で触れられているように「電波男の著者の周囲の女性はそうだったかもしれない」のなら、「筆者の周囲の女性はそこまで馬鹿ではないなのかもしれない」という反論に対して無力なのではないか)。
つまり、「電波男」を建設的ではない逃げを謳った書であると非難するのならば、「恋愛資本主義」に代わる新たなルールを提示するか、「恋愛資本主義」が社会の様々な要因の調整から生まれた現状では代替策が見つからない次善の策であることを証明してみせなければ、「電波男」に同調する層に対する説得力を持ち得ないのではないか。
「電波男」は、萌えによるルールからの逸脱を謳う書である以前に、「恋愛資本主義」に対する断罪の書であるのだから。

日曜日, 3月 20, 2005

背伸びアイテム

http://d.hatena.ne.jp/kanose/20050319#senobi
ここに挙がってるものに、ぜんぜん縁がない。
私は物心ついたときから、自分にとって面白くないものについて価値を見いだすことを拒否していたように思う。
小学生の頃から平均よりは本を読む子供だったと思うが、いわゆる「名作」と呼ばれるものは面白そうに見えなかったのでほとんど読んでいない。
長じてからも、流行しているものであっても、端から見ていて面白そうでなければ手を出さなかった。たまにとち狂って手を出しても、「流行りものはさほど面白くない」という経験に補強を付け加えるだけに終わった。
いわゆる芸術に関しても同じで、紹介されているものを外側から眺めてみても、さっぱり面白そうじゃない。必要でもないのに面白くもないものにわざわざ時間を使って人生を浪費しているやつは、きっと馬鹿に違いないと思っていた。
哲学などというものには、大学に入って教養の単位として、西田幾太郎の「善の研究」についての講義に顔を出してみたものの、一体何を言っているのかさえさっぱり判らずに終わった。
少なくとも、理科に属する学問は当時の私にとっても面白いと思えるものだったので、その経験は、わけの判らん学問に割く時間などない、という結論を導き出した。
特に人生に悩んで哲学に救済を求めるということもなかったので、それっきり、哲学というのは私にとって無縁の学問になった。
そうやって、楽しいと思えるものだけに、それなりに人生の時間を費やしてきた結果としてオタクとしての自分ができあがっている。今のところ不都合もないので、特に後悔はしていない。

金曜日, 3月 18, 2005

飛散した花粉が悲惨な結果を招く

今日は花粉が酷い。
眼が痒いを通り越して痛いになってしまっている。
こんなのが本当に梅雨時まで続くのであれば、本気でゴーグルを買ってこないといけないような気がする。

職を持った親の代わりに病気の子供の面倒を見るサービス

http://www.nikkei.co.jp/news/keizai/20050317AT1F2501O17032005.html
理想では、子供が病気になったら仕事なんぞほっぽって子供の世話をしましょう、てなことになるわけだけれども、働いている人間の全員がそういう恵まれた職環境にいるわけでなし、時期によっては休むわけにはいかんという状況もあるだろう。
休める状況にある人は休んで自分で世話をすれば良いし、これはそうじゃない人向けの救済措置ということでよろしいのではないだろうか。
「この制度があるのだから休むことはまかりならん」などという本末転倒な風潮ができてしまったら廃止ということで、ってな感じの柔軟な対応が役所にはできんのが問題といえば問題か。

電波男

「電波男」本田透(三才ブックス)読了。
http://ya.sakura.ne.jp/~otsukimi/
少し前からサイトを読んでいて、サイトでもこの本でも不思議に思ったのは、「何故、この人はこんなに恋愛に固執するのだろう?」ということだ。
「恋愛に固執する」という点を除けば、この人の主張していることは大体において私が普段から感じていることに近い。そりゃ私もオタクだからね。
ぶっちゃけ、私にとって恋愛とは戦争のようなものである。
この地球上で実際に起きているけれども、私の日常からは果てしなく遠い。そして時折フィクションの題材として楽しんだりもする。
おそらく当事者になると、洒落にならない事態に陥るであろうことが予想される点でも両者は似ている。そして今のところ、私はどちらの当事者にもなりたくはない。
ウザい自分語りはこの辺にしておく。閑話休題。
この本は、著者のトラウマ体験談を交えつつ、現代日本の男女関係を「恋愛資本主義」だとして分析、断罪し、そこからの脱却は「萌え」にあり、とする本である。
どこかのページにあった評に「冗長すぎる」というものがあった。この本は、上に挙げたサイトにある文章とほぼ同じ文体で綴られていて、400頁を超す分量を誇っている。
確かに、論とそれを傍証するだけの事実関係のみにしぼって書けば、新書程度の量に収まりそうではある。だが、それではこの著者が書く意味はなくなってしまうのではないか。新書に収まるように、理路整然と無駄を省いた文章を書いたのでは、この著者の作家性は生きてこない。
この本は、その提示する内容もなかなかユニークではあるけれども、著者の「芸」(文芸とすると違う意味になってしまうのがもどかしい)を楽しむ本でもあると思うのだ。
可能であるならば、「芸」を取り除いた原稿をNHK出版(はい、ここは笑うところです。岩波は無理にしても、講談社現代新書ならいけるかもしれない)あたりに持ち込んで、新書として発売してみるのも面白いかもしれない。タイトルは「恋愛資本主義の崩壊」とでもしておいて、韜晦しておくのがいいだろう。
なんかけっこう良い企画のように思えてきたのはきっと気の迷いだ。

3/22追記。「冗長に過ぎる」という評はここのものでした。
http://d.hatena.ne.jp/shinichiroinaba/20050315#p1

木曜日, 3月 17, 2005

アフィリエイトアレルギー

http://sinseihikikomori.bblog.jp/entry/139898/
ふーん。
Amazonに限らず、アフィリエイトに対するアレルギーというのは少なからずある。最近は本の感想もめったに書かないのでリンクを張っていないけれども、bk1の黎明期にbk1ブリーダープログラム(これなんか、普通の買い物の足しには使えず、ポイント単体でしか使えないという、相当に不便なシステムだったわけだが)に登録していたことがあった(いや、実際には現在も登録されている)のだけれども、その時にも同様の意見をみたことがある(それは感情的な不快感を表すに留まっていて、レビューの信頼性にまでは踏み込んでいなかったわけだけれども)。
リンク先の論者は、アフィリエイトに参加することでレビューが「必ず」紐付きになると断じているわけだが、現実にはそんなことはないという点と、他人の意見をタダで聞いて自分の買い物の判断を行なうという行為を棚に上げて、Web上で小銭を稼ぎたいというアフィリエイト参加者の心理を攻撃しているという点で、説得力というものに欠けていると思う。
アフィリエイトなんてのは、嫌だと思うのならいくらでも回避できる仕組みなのだから、そんなもんを気にするだけ馬鹿らしいというのが正直なところだ。
アフィリエイトがついているレビューが紐付きだと思うのなら、そのレビューを信用しなければ良いだけの話で、世の中のレビューを書く人間全てがアフィリエイトに参加したいなどと考えている訳ではないのだから、アフィリエイト付きのレビューを無視したところで何の問題もなかろう。そもそも、ネットワーク上の情報の信頼性は低いものだと思っておくのが安全側の考え方だ。フィルタリングが面倒? そんな作業はコンピュータにやらせればいい。
結局、リンク先の論者は「俺はアフィリエイト付きのレビューなんか信用しない、お前らも信用するな」と言っているに過ぎない。それがそのまま表出されているのならばまだ受け入れられるのだが、アフィリエイト参加者を敢えて貶めるような書き方をしているのが気に入らない。お前ごときの好き嫌いが世の中の善悪を決められると思うな、と思う。

今日はウイルスメールが良く来る

なんか今日は矢鱈とウイルス入りメールが来る。
暇つぶしにヘッダを表示させてみたりするのだが、Received:ヘッダにPHSで接続していると思しきIPアドレス(しかも同一)を含んだものが2通もあった。
どういう人物のマシンかはわからないが、きっとそのノート(デスクトップをPHS接続させるとは考えにくいので)はウイルスまみれなのだろう。
システム管理入門の記事などを読むと決まって、社内ネットワークにウイルスを持ち込むのは、誰かが持ってきてネットワークに勝手に接続するノートPCだったりするのだけれど、実際にそういう例が多いのだろうなぁ、と思わせる出来事だった。

水曜日, 3月 16, 2005

DirectShowふたたび

COMばりばりのDirectShow Filterを作るより、DirectX Media Object(DMO)を作る方が簡単だという話を聞いて、ちょっとMSDNのドキュメントに当たってみる(他に使い物になる日本語ドキュメントが見つからなかったのだ)。
うーん、確かにいちいち全てのインタフェースにGUIDを振らなきゃならんDirect Showフィルタよりは簡単そうだけれども、これはこれで充分ややこしい気がする。
DirectShow FilterではThread間同期を取らなければならない、なんて書いてあるが、DirectShow Filterのドキュメントではそんな話は聞いてなかったぞ。これは、単にそのレベルまで達しなかったということだと思うが。
ちょっと目標までは気の遠くなるような長い道程が残っていることがわかってげんなり。
といったところで本業が忙しくなったので、おそらく永遠にペンディング。
また腰砕けオチかよ!

頭痛

昨日から、全ての活動を止めたくなるほど酷くはないが、知的活動を阻害するには充分な程度の頭痛に悩まされている。
聞くところによると、花粉症で頭痛を伴う症状を発する人もいるらしいが、これまで私にはそういう経験がなかったので、風邪なのか花粉症なのか判断に迷う。
って、医者に行けばいいのか。

火曜日, 3月 15, 2005

一(はじめ)緑茶のおまけ

一(はじめ)緑茶のおまけとして、何故かampmでだけ(といっても、その他のコンビニチェーン店はサンクスしか周囲にないのだが)茶農家のジオラマがついてくるので、ついつい買ってしまう。
他のおまけと違って、外から何が入っているのか確認できるのが良心的で、12種類のうちの縁側シリーズだけを買っている。
んで、その縁側を適当に並べて、その前にドラゴンの1/144ケーニヒスティーガーなど置いて悦に入ったりしている。
厳密に考えると縁側の方が若干スケールが大きく(日本家屋の天井よりもケーニヒスティーガーの全高である、3.08mが低いとも思えない)、日常風景に溶け込む(?)戦車のビネットとしての完成度はイマイチなのだけれども、お手軽に楽しめるので完成品のみを集めるヌルミリタリーモデラー(モデラーと呼んでいいものやら)としては、これでいいのだ。

Vodafoneのフェラーリモデル

http://www.itmedia.co.jp/mobile/articles/0503/12/news020.html
……日本で出たら思わず買ってしまいそうだ。

NEETネタあれこれ

http://osaka.yomiuri.co.jp/news/20050312p502.htm
うーむ。NEET=オタクなのか?
http://www.ntv.co.jp/document/main/20050306.html
3/13にやっていたNNNドキュメント'05で紹介されていた二人のNEETは、とてもオタクとは呼べない連中だった気がするのだけれど。
http://syojotantai.com/
この人、なんか見たことあるような気がしてしょうがないんだけど、銭金にも出てなかったっけ? と思ってググってみたら、やっぱ出ていてやらせ疑惑になっているようだ。

月曜日, 3月 14, 2005

DirectShowとMPEGについて調べている

ちょっと個人的興味から、DirectShowによる動画ファイルフォーマットの変換について調べている。最終目的は、MPEG-1のファイルを生成することである(ソースはAVIでも何でもいい)。
未だ暗中模索状態ながら、DirectShow付属のツールであるGraphEditを使った方法では、そう簡単にはMPEGファイルを作ることはできないらしい、というところまでは判った。
詳しく書くと、MPEGファイルを生成する際に使う、AVI MuxもしくはASF Writeに相当する機能を持ったDirectShowフィルタファイルを見つけられずにいる。MPEG CodecというタイトルがついたファイルはGoogleでいくつか見つかるのだが、その先が必要なのである。最低でもVideoトラックとAudioトラックのMultiplexが必要なのだから、まさかそのまま書いてOKとは思えない(ASF Writerは、例えばMPEG Decorderからの出力をWriterにそのままぶち込んでやると、圧縮からMultiplexまでやってしまうという恐ろしい代物だ)。
しかし、MSDNのドキュメントには、あたかもそれが存在しているかのようにMPEG Multiplexerなんて書いてあったりするので始末に負えない。ないものを例に使うときは、はっきり「ない」と書け。
んで、DirectShowフィルタを使ったお手軽プログラムでMPEGファイルを作りたいと考える人間はあまりいなくて、そういうお手軽実装ならTMPGEncを使ってしまえというのが主流らしく、Googleではそういうページばかり引っかかる。
やっとのことでMPEG-1のDirectShow filterを見つけたと思っても、悉く商用で、個人が興味本位で使うには向かない。
これは要するにもっときちんと勉強して自分でDirectShow filterを書くしかないということなのだろうか。

土曜日, 3月 12, 2005

Mac miniが日本語キーボードを誤認識する問題について

http://www.asahi.com/tech/apc/050311.html
Jobsは日本が嫌いだ、という認識をみんなもっと持つべきだと思います。

金曜日, 3月 11, 2005

プログラマの三大美徳

http://www.otsune.com/diary/2005/03/09.html#200503093
あぁなるほど。「全てを疑ってみる」というのはプログラマの三大美徳のうちの一つだったのか。
一体、自分はいつ頃からこんなに疑り深くなったのだろうかと不思議に思っていたのだけれども、これで少し納得。
http://kanaya.naist.jp/Zope/member/nishio/coreblog/55
でもここによるとプログラマの三大美徳は「怠惰」「短気」「傲慢」になってるな。「全てを疑ってみる」は一体どこから来たのだろう?
しかしながら、やはりプログラマは私の天職のようだ。

不穏な雰囲気のCherryOS

http://www.cherryos.com/
http://homepage3.nifty.com/toshi3/index.html
Windows上でMacOSを動作させるCherryOSというソフトウェアが、GPL下で開発されたPearPCのパクリであるという指摘からちょっと話題になったりしていたのだけれども、肝心のCherryOSがリリースされないのでそのまま忘れ去られていた。
そのCherryOSが、このたび正式にリリースされたらしい。そしてやっぱりPearPCのパクリである可能性が濃厚のようだ。
個人的にはGPLは鬱陶しくて好きでないので(「いいことなんだから、全員俺に従え」って言われてる気がする)、GPLの元締めと裁判してくれないかなぁ。勝つのでも負けるのでも良いから。そんな腹が据わってる団体なら、しょぼい言い訳なんかしないのだろうけれど。

台詞の日本語が間違ってます

テレビ埼玉で、機動戦士ガンダムの再放送に引き続いて機動戦士Zガンダムの再放送が始まった。私は当然のごとく視聴しているのだが、その1シーンで気になったこと。
先週の放送で、ジェリドが「汚名挽回」と言ったのだけれども、その場にいたエマ・シーンもバスク・オムも誤った用法だと認識しないで(バスクに至ってはその台詞を受けてなにか言うので、完全に間違えて覚えていることが判る)普通にストーリーが進んでいったのでちょっと笑った。
これは、ティターンズがトップからして言葉の用法も判らないDQNの集団である、という描写なわけじゃないんだろうなぁ、やっぱし。

木曜日, 3月 10, 2005

手帳に六曜を表記することが差別だと言ってる連中の言い分

http://mbs.jp/voice/special/200503/0309_1.html
日本には差別がもうほとんどないので、こういうことにイチャモンをつけるくらいしかやることがないということか。
解散したら?

復活の日は現実には来ないんじゃないか

http://hotwired.goo.ne.jp/news/technology/story/20050310302.html
「復活の日」を地で行ってるんですけど……。
大丈夫なんだろうか。

金儲けだけが人生なのか

最近の企業活動に関する話題を耳にしたときに、なにかが引っかかることが多かった。
今日、何が心に引っかかっていたのか、ようやく形になり始めたので、雲散霧消しないうちに書き残しておく。
それを端的に言葉にすれば「あんた、企業活動を通じて何がしたいの? 純粋に金儲け? それとも他にやりたい活動があってそれを維持するために収支をプラスにしたいの?」ということだ。
別に純粋に金儲けに走る人間がいても、非難される筋合いはないと思うのだが、そういう人間とはあまり友達になりたくないし、自分にとって大切な分野にはあまり関わって欲しくもない、というのが正直なところだ。

一(はじめ)緑茶を飲んでみた

コカコーラボトラーズの新製品、「一」の試飲缶というのがコンビニのレジ前にあったので貰ってくる。
で、飲んでみてまず思ったのが「薄い」ということだ。
味も薄ければ香りも薄い。一の前にコカコーラボトラーズが売っていた「茶葉の功」の味が濃かったので、余計に薄く感じる。
元来、私はあまり濃いお茶は好きではないので、これはこれで飲みやすいと感じるけれども、世間一般的にはどうなのだろうか。

火曜日, 3月 08, 2005

WinnyとCDの売り上げには相関関係が認められない

http://www.mainichi-msn.co.jp/it/coverstory/news/20050307org00m300062000c.html
やっぱり。
今の音楽業界にいる連中は、自分たちが何を売っているのか、もしくは消費者が何に金を払っているのかを見誤っている。

月曜日, 3月 07, 2005

iTunesでPDF文書の管理ができる

http://slashdot.jp/article.pl?sid=05/03/05/0438212&topic=104
あぁ、こういうのを面白がって使うかどうかにオタクであるかどうかの分水嶺があるような気がする。

SONYのトップが刷新されたようだ

http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0503/07/news025.html
出井氏と共に久多良木氏も更迭。そりゃそうだろうねぇ。いくらPSPの売り上げ推移が出荷ペースから考えればかなりのものだとしても、PSXがあの体たらくじゃねぇ。
個人的に一番最近買ったSONY製品はヘッドフォンだったりする(しかも二年近く前だ)ので、消費者としての私はSONYから離れて久しいのだけれども、人事刷新によって「このカテゴリの製品を買うならとりあえずSONYだ」と消費者に思わせるブランド力が取り戻せるのだろうか。一度離れてしまった消費者として生暖かく見守りたい。

ゲームで自閉症ふたたび

http://d.hatena.ne.jp/komutai/20050305/
森「ゲーム脳」昭雄が「ゲームをやっていると自閉症になる」と発言したという情報を、わざわざ電話して(電話してきたのは森昭雄「らしき人物」らしいが)確認した人がいる。お疲れ様なことである。
まああれだ。後から確認を取られたら、よほど核心に触れているところでもない限り、とりあえずグレーな部分に関しては「そんなことは言ってない」と答えておくのがセオリーというものなので(きちんと用意された原稿をただ読み上げるだけでもない限り、講演というものはいい加減なものであると思う)、あんまり信用できたものではないと個人的には思うのだが、森「ゲーム脳」昭雄は「ゲームで自閉症になる」という説に今のところ固執しているわけではないということだけは判る。
彼が何に固執していようが、彼の唱える説が明らかに間違いならば笑い飛ばすだけなので、どーでもいいっちゃあ、どーでもいい話なのだが。
http://members.jcom.home.ne.jp/take-yabu/tomogamebrain.html
気になるとすれば、一次情報源の人のページに書かれている話の流れが、当日の講演内容を大きく歪めているのでなければ、「最近自閉症が増えている」「先天性以外のものは××が原因である」という話をした時に、「××」の部分にゲーム以外の何かが入るということは考えにくいし、もし違うものが入ったとしても、それは誤解を招き易いどころの騒ぎではなくて、意図があろうがなかろうが聴衆に誤解させるためにそう言っているとしか思えないのは確かなところであろうと私は思う。
もし、間違いや不注意から、ゲーム脳の話題が主である講演の一部に片岡教授のテレビを原因とする自閉症様症候群の話を混ぜたのだとすれば、森「ゲーム脳」昭雄は知性の働きが鈍い人物であると評価せざるを得ないし、聴衆に対してどのように受け取られるかを計算してやったのだとすれば、ゲーム脳説自体がそのような姑息な手段を用いなければ受け入れられない、学説と呼ぶのに相応しくない説であると看做さざるを得ないということだ。
どちらにせよ、今回の件によって、私の内部での森「ゲーム脳」昭雄の評価は下がることはあっても上がることはないのである。

金曜日, 3月 04, 2005

メガドラ版テトリスは無駄だったか?

http://www5a.biglobe.ne.jp/~ninten/tetlis.HTM
事件の経緯はともかくとして、引っかかるのは以下の記述。
(引用開始)
たとえメガドラ版が発売されていたとしても、それがメガドライブの
起爆剤となっていたかは疑わしい。すでにファミコン版があるのに、わざわざ
メガドラ版を買う人がどれだけいるだろうか。
(引用終了)
BPSや任天堂が出したテトリスは、SEGAがゲームセンター向けのアーケード版とは挙動が違い、メガドライブ版は同じSEGAが出すのだからアーケード版の移植になっている。
具体的に書くと、SEGA版はブロックが一度下まで落ちて他のブロックにくっついても、ごく短い時間だけはレバー操作で左右に動かすことができた。BPSや任天堂版は一度下まで落ちて他のブロックくっついてしまえばそれまでである。
この違いは、主にゲームの展開として状況が厳しくなってから効いてくるもので、アーケード版にはまってハイスコアを叩き出すような人たちには、かなりの違いとして受け止められた筈である。
日本のテトリスブームに火を点けたのはアーケード版であることを考えれば、ファミコン版はそのパチモンであると受け取られてもおかしくないほど挙動が違うので、宣伝の仕方によっては本体を買ってもメガドライブ版をやりたがる人は一定数存在したはずである。
「そんなマニアはニッチ市場にしかなり得ない」という言説は今だから言えることであって、メガドライブとファミコンがしのぎを削っていた頃はそういうマニアックな違いも充分認識してプレイするほどゲームに夢中な人間が多かったのだ。
よって、メガドライブ版テトリスがきちんと発売されていればあるいは、という妄想は、単に妄想とだけ片付けられることではない。ましてやファミコン版を持っているからメガドライブ版には見向きもしないなどということも、最初に触れたテトリスがBPS版であるならともかく、そうでないなら、ほとんどあり得ない話である。この頃のゲーム機には、「どれだけゲーセンのゲームに近いものが遊べるか」という評価軸が確かに存在したのである。

木曜日, 3月 03, 2005

エルンスト・ツンデル

http://d.hatena.ne.jp/finalvent/20050301#1109662005
なんか聞いたことある名前だなーと思っていたら、何のことはない。パンターの砲塔付きアダムスキー型円盤のおっさんではないか。
こういうお笑い系の人は放置しておいた方が、その説(この場合はホロコースト否定)にとってはダメージになると思うのだがどうか。

テレビで自閉症

私の母親は典型的な田舎の人である。
どの辺が典型的かといえば、時々、信じられないくらいの偏見を露にするという点においてである。
例えば、私が小学生くらいの頃、近所(つっても、私の呼吸器系の疾患のためにかなりの田舎に居を構えた当時の話で、数百平米の原野と竹林で隔てられた隣の家であったが)に自閉症を患っているらしい子供がいた。
その子を見て私の母親は「赤ん坊の頃からテレビばかり見せて育てると自閉症になる」と言っていた。
当時から疑り深かった私は「本当にそうなのだろうか?」とは思いつつも突っ込んで調べることもせずに今に至っているわけなのだが(今の私は自閉症が先天的疾患であることを知っているので、はっきりとそれは間違っていると断言できる)、森「ゲーム脳」昭雄の「ゲームをやると自閉症になる」発言に言及したページのリンクをたどっているうちに、私の母親と同じことを言っている大学教授がいるという驚愕の事実に突き当たった。
http://www.autism.jp/k-05-asahi.htm
http://www.be.asahi.com/20030503/W25/0014.html
http://www.kawasaki-m.ac.jp/pediatrics/kataoka/koudougakkai/H16.10.1nihonkoudou.htm
リンク先を読んでもらえれば判ることだが、川崎医科大学(岡山県倉敷市)の片岡直樹という教授である。
一番最後のリンク先にある、片岡教授が自ら書いた論文では、本文中ではテレビによって引き起こされると報告している症状に関して「新しいタイプの言葉遅れ」と表現し、自閉症と同じ分類に置かれる「自閉性言語遅滞」に当たる、としている。
つまりここではテレビが原因であるとしている症状は、自閉症とは別の病気であるという認識をしている。しかし、この論文中には「テレビと自閉症との関係」という章も存在しており、片岡教授自身はこの病気を、自閉症と区別する必要性を感じていないのではないか、とも推測される。
要するに、症状が似ているから自閉症と診断されて医者に連れてこられる可能性(というよりは、経験か)が高い。よって、現場の人間としてついつい自閉症と呼びたくなってしまう、ということなのだろう。
その態度は学術的にも政治的にも正しくない(あんまり「政治的に正しい」という言葉は好きではないけれども、この場合に相応しい表現が見つからないので敢えてこう書く)。
先天性の自閉症を患っている子供を持つ親からすれば、ただでさえ苦しいのに、この説が一般に流布されれば、さらに世間から「テレビに頼って子育てを放棄した親」という偏見の目に晒されることになるわけで、反発するのは当たり前である。
普通、こういう場合は新しいカテゴリーを作ってそこに分類するのではないだろうか。結果が同じであっても、原因が異なるのであればそれは別の病気とするべきだろう(高熱を発する病気が全て同じ病名になるわけではないのと同様に)。先天性で治療方法が確立していない病気と、後天性で一定の治療実績がある病気を同じ名前で呼ばれたら大混乱を引き起こすのは必定である。
論文の内容自体にもいろいろと突っ込みどころがあるようなのだが、それは既にやった人がいるので同じことはしない。
http://takoyaki-tako-tako.de-blog.jp/takotako/2005/02/post_22.html
以前取り上げた森「ゲーム脳」昭雄の発言は、この片岡教授の論文を受けて、我田引水的な論理展開を経て為されたもののように感じる。
すなわち、「テレビが原因で自閉症様症状を起こす乳幼児がいると言っている人がいる」→「ゲームもテレビを用いているし、ゲームもテレビも子供が夢中になる」→「自閉症は脳の機能障害だ」→「痴呆症は脳の機能障害だ」→「ゲーム脳もそうだ」→「ゲームでも自閉症になる(に違いない)」(上に書いたように元の論文が混乱しているので、二次引用では自閉症様症状と自閉症の区別が消失してしまう)。とまあこのようなことが森「ゲーム脳」昭雄の内部では起きたのではないか。

談話室滝沢は究極のメイド喫茶か?

http://www.geocities.co.jp/Playtown/2080/
http://www.tobunken.com/diary/diary.html
原えりすんの電気オタク研究所(05/03/02分)と唐沢俊一の裏モノ日記(05/02/27分)より。
(どちらも、そのうち過去ログに移動するはず)
談話室滝沢の特異な経営方針から、正社員となるウエイトレスには華道や茶道の習い事が義務付けられていたが、最近の若い女性はそのような私生活への束縛を嫌い、人材を確保できないために閉店となる由。
その方針をして、原えりすんは「究極のメイド喫茶は談話室滝沢だった」としたのであるが、はて? メイドというのは労働者階層の職業だったはず。
使用人としての最低限の礼儀作法は監督するメイド頭などに叩き込まれたとしても、華道や茶道といった習い事まで習得することはなかったのではないか。むしろ、そのような習い事は上流階級のためのものだとして遠ざけられる傾向にあったのではないか。いやいや、よく考えてみれば、労働者階級の賃金では生活資金とは別にそのような習い事に費やせるだけの余裕などなかったに違いない。
しかしながら、それは西洋の事情であって、本邦において最初にメイドという職業が誕生した時は、彼女たちは国家的重要人物であるところの日本に滞在する外国人の身の回りの世話をするという使命を帯びており、当然のことながら外国語を習得している必要があった。つまり、日本におけるメイドというのは、高い知識と教養を必要とした職業だったのである。その経緯に関しては、以下のページに詳しい。
http://maidken.hp.infoseek.co.jp/inushima/history.htm
というわけで、日本においては原えりすんの言説は正しいのかもしれない。あくまで日本においては(でもメイドが萌え職業として認知されているのも日本だけだったりする)。
談話室滝沢閉店の経緯に話を戻すが、正社員を地方出身の女性に限るとしていた理由として、寮生活をさせるためだけではなく、地方と東京の経済的格差から来る精神の質の違い(別にどちらが上でどちらが下ということはない。「性質の違い」としてしまうと煩く感じるので敢えて「質」とした)もあるのならば、労働ビザで入国した東南アジア女性に同様の教育を施して正社員として迎え入れるのでは駄目なのだろうか。
おそらく、教育のためのコストは日本人よりも掛かると思われるが、これまでの正社員の条件と変わらない待遇を受けられるのであれば、喜んで正社員になる人間はひきも切らないのではないだろうか。
おそらく、談話室滝沢の社長はウエイトレスが日本人であることにもそれなりのこだわりを持っているかもしれず、検討はされた上で却下になったのかも知れないが。

水曜日, 3月 02, 2005

オープン戦、ソ・中

「オープン戦、ソ・中」などと書いてあり、しばらく「何故に21世紀の今になって、ソ連と中国が戦争を?」と考え込んでしまった。
そんなわけはない。ソフトバンクホークスと中日ドラゴンズの試合だ。
ホークスのオーナー企業がダイエーからソフトバンクになったので、「ソ」と表記されるようになったのだ。うーんややこしい(などと感じるのは、軍オタには一定数いるんではないかと邪推)。
「独楽」とか「独活」とかが頭につく企業がプロ野球チームのオーナーになったりすれば、「独・ソ戦」も実現したりするわけか。どこかそういう企業はないものか。

火曜日, 3月 01, 2005

阿漕なことをやる大学の知財部門があるらしい

http://d.hatena.ne.jp/cozoo/20050228/1109593741
小人閑居して不善を為すとはぜんぜん違うが、慣れないことを役所にやらせると碌な結果を生まないことの典型のような気がする。
大学に金儲けさせようなんて言い出した馬鹿はどこのどいつだ? そいつは死罪にすべきだろう。

茨城県で地下水が砒素に汚染されていた問題について

http://www.doblog.com/weblog/myblog/15765/1054046#1045046
http://www.tbs.co.jp/uwasa/20050123/genba.html
http://members.at.infoseek.co.jp/gregarina/H1E.html
http://new.oo.ne.jp/news/yomiuri/shakai/20050127/20050127i401-yol.html
マスコミに登場する自称専門家には碌なものがいない、ということで。
マスコミには自らの失敗を省みるという思考回路は存在しないということもよく判る。
というか、営業活動でもなければ、マスコミ相手になにか言おうなどと考えるまともな言論人がいるのだろうか。いるとしたら相当の自信家か、もしくは楽天的か、そうでなければなにか特殊な信念でも持っているのではないか。